「浅石城落城4百年記念史」から 話は古く、浅石隆盛時代にさかのぼる。浅瀬石から毛内に通じる市道俗に白岩線といわれる道路の
中間地に小館という丘あった。現在、浅瀬石財産区の所有地であるが昭和五十年、日本道路公団が
東北道路車道を開設するため小館の土を財産区から買ったことに火がついた。
六万平のどこかに「漆の樽」が埋められており、それが今の価格にすると億単位という莫大な宝物だ
という話は以前からあった。
「漆の樽」埋蔵説には二つの裏付けがある。
1つは浅瀬石山に漆の木が豊富であった、また、鉄くずが多く発掘されることから、武器を作った場所
ではないだろうか、武器づくりには必ずといってもよいほど漆を使うという。
二つには、昭和十年代まで六万平は牧草地であった。ある年、馬が1頭行方不明になり探したところ
馬は足に漆をつけて帰ってきたという。
土取りが本格化するに従い、埋蔵品の話は熱を帯び、出るか出なの両論が浮かびあがってきたが
結果は出なかったが今度は別な場所だろうとこの話、時々、話題になるっている。
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